2013年7月19日金曜日

鶴岡市櫛引にてさーひる城を現地指導

山形県指定史跡 丸岡城跡
久しぶりに書きます。
時系列で書くつもりだったけど、なかなか昔のことは書きにくいし、思い切って最近のことから再開してしまおうと思います。

今日は「さーひる城」のはなしをします。さーひる→CircleHill→丸岡、要は「丸岡城」のことなんですが(笑)。

丸岡城というと福井県の丸岡城が有名ですが、今回お話する丸岡城は山形県鶴岡市、櫛引(くしびき)の丸岡という地区にあります。このまえ恋人からそこに連れて行ってもらいました。

櫛引は鶴岡市の南東部に位置し、2005年に平成の大合併で鶴岡市と合併するまでは櫛引町というひとつの町でした。庄内平野の肥沃な大地を生かした庄内米(はえぬき、つや姫など)の生産、さくらんぼなどのフルーツの栽培が盛んで、シーズンにはさくらんぼ狩りなども行われています。なお、山形県はさくらんぼの生産量が日本一(シェアは7割超)だそうです。

櫛引はなかなか古い歴史を持つ地域で、最初に歴史に登場するのは奈良時代です。当時はいまの日本国の版図の全域には天皇勢力の支配は及んでおらず、出羽国と呼ばれていた山形は、天皇を中心とするヤマト王権の侵略軍と、蝦夷(えみし)といわれたこの地に先住していた北方民族との対立の最前線でした。ヤマト王権は、出羽国の開拓、軍事に従事させるために、信濃国、上野国、越前国、越後国(いまの長野、群馬、福井、新潟にあたる地域)からそれぞれ100戸を移住させました。移住してきた彼らによって櫛引の地は拓かれたのです。「丸岡」という地名は、越前国からの移住者が福井県の丸岡(有名な方の丸岡城がある)にちなんでつけたといわれています。

丸岡城が最初に築かれたのは戦国時代のことで、鎌倉時代から周辺一帯を治めていた地頭の武藤氏によって、大宝寺城(鶴岡市中心部にあった鶴岡城の当時の呼称)の支城として築かれました。櫛引は山形県の内陸方面へと向かう「六十里越街道」の通り道になっていて、交通の要所ということで支城が築かれたようです。六十里越街道は現在では国道112号線櫛引バイパスと名前を変えていまも近くを通っています。

櫛引の黒川という地区には、「黒川能」という伝統芸能がありますが、この黒川能は一説によると武藤氏十二代当主の淳氏が京に上洛した際に、能役者一行をこの地に連れ帰ったのが発祥とされています。黒川能はこの地の人々によって数百年の間受け継がれてゆくうちに、中央の能楽とは異なった独自の発展を遂げたため、その独自性から大変貴重なものであるとされ、国の重要無形民俗文化財にも指定されています。現在でも、毎年雪深い2月に「王祇祭」が行われ、黒川能が奉納されるほか、8月に鶴岡城跡で行われる「庄内大祭」でも上演されます。

その後、激動の戦国時代の中で庄内地方の領主は武藤氏から上杉氏、最上氏と推移します。そして、江戸幕府が成立し太平の世となると、地方領主が軍事力を持つことを恐れた江戸幕府は、一つの藩につき一つの城しか所有してはならないという、「一国一城令」を出し、これによって丸岡城は取り壊されてしまいます。1615年のことです。その後、家督相続の内紛により最上氏は幕府に取り潰され、1622年に信州松代より酒井忠勝が入部し、庄内藩が成立します。酒井氏の庄内藩は明治維新まで存続します。

さて、取り壊されてしまった丸岡城ですが、後に再び歴史に登場するときが来ます。

飛んで九州肥後国(いまの熊本)に、加藤清正という武将がいました。豊臣秀吉の側近として武勲を立て、「賤ヶ岳の七本槍」にも数えられる名将で、江戸時代の思想家頼山陽をして「勇猛は夜叉の如く、慈悲は菩薩の如し」と絶賛させた人でした。肥後19万5千石の領主としても治山、治水、築城に非凡な手腕を示し、領民から慕われていました。朝鮮侵略に参加したことからアジア諸国からは悪い評価を受けることもありますが、武士として主君である秀吉の命令に背くことはできなかったのでしょう。ちなみに、朝鮮侵略では、日帝36年時代の抗日ゲリラの聖地、そして金正日将軍の出生の地として名高い白頭山(ペクトゥサン)にて「虎退治の武勇伝」を立てています。

清正は1611年に死去し、息子の加藤忠広が家督を継ぎます。しかし1632年、忠広は突如として幕府より改易を命じられます。改易というのは江戸時代の大名に対する最も重い処分で、城と領地をすべて取り上げる処分です。この改易の理由については諸説ありますが、幕府が支配をより磐石なものとするために行った旧豊臣勢力に対する粛清の一環といわれています。城と領地を取り上げられた大名は処刑、あるいはどこかの他の大名にお預けとなりますが、忠広はお預けとなり、お預け先がここ、庄内藩櫛引丸岡であったのです。忠広の一代限りにおいて堪忍分として1万石が与えられました。

忠広は母の正應院と家臣たちを伴って出羽へと旅立ちますが、迎える側の酒井氏は温情ある待遇で迎えました。藩主忠勝は、堪忍分の丸岡1万石の領地管理に助力し、そして廃城となっていた丸岡城跡に居館を新築して住まわせました。忠広は1653年に病没するまでの20余年をこの地で過ごします。遺体は1651年に没した母とともに鶴岡市の旧市街にある本住寺に埋葬されています。忠広の元家臣たちのうち希望するものは酒井氏の庄内藩に再雇用され、浪人となることを免れました。

忠広の丸岡での生活についてはよく分かっていませんが、詩歌管弦に親しみ、丸岡城から程近い金峰山に参拝したりと、意外に自由のある生活をしていたといわれます。丸岡城内にも忠広の詠んだとされる歌碑がいくつか残されていました。また、前述の黒川能を鑑賞して楽しんだとも言われます。

私の想像ですが、忠広は丸岡での生活を案外気に入っていたのかもしれないと思います。丸岡城は水田の中にあり、金峰山や母刈山を間近に望み、天気がよければ遠く月山や鳥海山を望むこともできる大変風光明媚な場所にあります。人間の権力闘争などとは無縁の大自然を眺めながらの生活は忠広の心を癒したことでしょう。また、眼の前の水田で農民が働く姿を見るのも、領民との距離を間近に感じられたことでしょう。忠広が櫛引の風土を愛していたであろうことは、この地で栽培されていた豆を「この豆は西国には産しないから」と肥後時代に懇意にあった知人に贈ったエピソードが残されていることからも知ることができます。そして、忠広は当初こそ「東国といえば文化に乏しい野蛮な地」とのイメージをもっていたかもしれませんが、イメージに反して櫛引には黒川能のような立派な独自の文化があり忠広を楽しませたし、近傍の金峰山への信仰文化も忠広にとって興味深かっただろうと思います。統治者としては忠広は失敗しましたが、彼は詩歌管弦を好んだ人であったので、悠々自適に過ごせる丸岡での生活のほうが自分にあっているとすら感じたかもしれません。

櫛引の人々は、加藤清正、忠広父子を篤く偲び、毎年7月に「清正公祭」を行っているほか、丸岡城の遺構の保護、調査、復元を行っています。調査の過程で丸岡城に隠されたある事実が判明しました。忠広が改易を命じられたとき、亡父清正の遺骨を幕府に秘密で櫛引まで持ち運び、丸岡城に隣接する天澤寺境内に埋葬していたことが分かったのです。幕府の探索に備えて忠広はダミーも用意していました。 清正公閣という小さな祠に清正の鎧だけを納め、公式にはこれを清正の供養の場としました。そして、遺骨は境内の別の場所に五輪塔を建てて秘密裏に埋葬したのです。調査の後、1963年には丸岡城は「丸岡城跡・加藤清正墓碑」として山形県史跡に指定されました。
加藤清正の遺骨が納められている五輪塔
昭和時代に造られた覆堂で守られていますがガラス戸越しに五輪塔を見ることができます
私が丸岡城を訪れたとき、たまたま観光ガイドの方がいらっしゃり、親切に案内をしてくださいました。前田(まえた)という苗字の方で、有名な加賀の前田利家の末裔の方なのだそうです。丸岡城の脇には小さな案内所もあり、そこでは「丸岡城ものがたり」という小冊子が置かれています(協力金100円)。この記事を書くときに参考にさせていただきました。

丸岡城内は櫛引の人々の尽力によって非常に立派に整備されていました。1999年から2006年までの丸岡城跡発掘調査、および2007年から2010年までの丸岡城跡公園整備工事の成果のようです。建物はもちろん残っていませんが、礎石はきちんともとの位置通りに並べられ、一つひとつの建物について説明の為の小さな碑も作られていました。お堀も残されています。
遺構の一部、よく整備されています
丸岡城は水田地帯の中にあり、とても静かな場所でした。その静かな場所で、礎石の遺構群と、金峰山や母刈山の山並みを眺めつつ、丸岡城の在りし日の姿、そして加藤忠広のこの地での生活を想像しました。忠広の辿った運命は歴史の無情としか言いようがありません。しかし、おそらく当時から変わらない姿をとどめているであろう山々や田畑を眺めていると、人間を翻弄する運命すらも瑣末なものに思えてきます。それでも、この地の人々の心の中にいまでも加藤清正、忠広父子が生き続けているのだと思うと、どこか嬉しくなるものでした。
丸岡城の墓守り?
地元の人々からは「マーチン」と呼ばれているようです
さて、 丸岡城を見た後は、近くにある「櫛引温泉 ゆ~TOWN」に漬かってきました。鉄系の茶色いお湯の温泉と、鉄イオンを除いた透明なお湯の温泉の2つの浴槽があり、非常に温まります。レストランも併設されていて、とんかつ定食が美味しかったです。そしてなにより、このような大型温泉施設にしては珍しいことに、ゆ~TOWNのお湯は源泉掛け流しなのでとても気持ちが良く、大変おすすめです(料金400円)。
ゆ~TOWNのとんかつ定食、とても美味しいです
櫛引は大変素晴らしい場所でした。もし近くにお住まいの読者がいらっしゃったら、あるいは清正ファン、フルーツ好き、能ファンの読者がいらっしゃったらぜひ1度訪れてみてください。

***LINK***
丸岡城跡・加藤清正墓碑 鶴岡市: http://www.tsuruokakanko.com/kushibiki/maruoka/
櫛引エリアの観光案内 鶴岡市: http://www.tsuruokakanko.com/kushibiki/
櫛引温泉 ゆ~TOWN: http://www.u-town.info/index.htm

2013年1月8日火曜日

酒田市松山にて眺海の森を現地指導

眺海の森からの眺め
冬休みの間には恋人と2回デートをした。1回目は12月下旬に宮城県仙台市で、2回目は1月上旬に山形県酒田市でデートをした。このうち前者のほうはデートとはいっても「SENDAI 光のページェント」を現地指導したほかは家でダラダラしていただけなので、Blogネタとしては後者のほうがよいだろう。今回は後者のデートについて書いていく。

眺海の森は酒田市の松山という地区にある自然公園で、宿泊施設や年間を通して楽しめる様々なレジャー施設がある。以前に酒田を紹介した際に酒田を港町だと紹介したが、眺海の森は海からは少し離れていて、見晴らしの大変よい丘陵地にある。というのも、眺海の森が立地する松山という地区はもともと松山町という独立した町で、2005年に平成の大合併で酒田市に組み入れられた地域だからだ。

松山という町は人口は少ないながら非常に由緒のある町だ。江戸時代にはこの地に松山藩という石高2万5千石の藩があり、200年以上に渡って存続した。もともと山形県の庄内地方には酒井氏が治める庄内藩という藩があったが、庄内藩初代藩主である酒井忠勝の三男忠恒が1647年に庄内藩領の一部を分与されて興したのが松山藩の始まりである。なお、「松山」の名前も、かつてこの地は「中山」と称されていたが、忠恒が「松山」と改めたのが始まりである。以後、松山藩は明治維新後の廃藩置県までの200年以上の間存続し、三代藩主忠休の時代には幕府から許されて松山城が築城された。つまり、松山は城下町であった。残念ながら明治維新後に城はほとんど破壊されてしまったが、大手門は破壊を免れ、現在まで松山町内にその勇姿を留めている。

夜のゲレンデ
さて、今回のデートの目玉はスキーであった。眺海の森には「松山スキー場」という施設があり、庄内の美しい大自然を味わいながらスキーができる。300mほどの長さのコースが3面あり、そこそこの傾斜だから退屈しないし、丘陵地なので積雪も十分で良好な雪質を楽しめる。人出が少ないのもよい。夜などはほとんどゲレンデを2人で貸切するような感じで非常に素晴らしかった。料金はリフト1日件2400円、スキーセットのレンタルが1日1000円(ウェアは持参のこと)であり、なかなかリーズナブルである(2013年1月現在)。私はスキーは上手ではないが、恋人と一緒にゲレンデで時間を過ごせてとても嬉しかった。

16万5千石の夜景?
宿は眺海の森の施設の一部である「眺海の森 さんさん」という施設を利用した。この宿からは美しい庄内平野と日本海を一望できる。特に大浴場でお湯に漬かりながら庄内平野の夜景を眺めるのは最高だった。デートの日は空が若干荒れ模様で、晴れたかと思えばすぐ吹雪きだすような天候であったが、夜はかなり遠くまで見晴らしがきき、酒田市の灯りや庄内空港の誘導灯まで眺めることができ、幻想的な雰囲気すらあった。眼下の庄内平野は「はえぬき」や「つや姫」などのブランド米を産し、かつては庄内藩14万石、松山藩2万5千石を支えた日本有数の稲作地帯である。さながら、「16万5千石の夜景」といったところか?


豪勢な夕食(その1)
豪勢な夕食(その2)
最後に、お腹も空いてきた辺りなのでさんさんの夕食の写真をのせよう。これは「最上」コースの料理だ。といっても、最上(さいじょう)のコースということではない(むしろいちばん安いコース)。最上と書いて「もがみ」と読む。庄内平野を流れる河川である最上川(もがみがわ)に由来しているのだろう。松山の地元の食材を活かした構成で、見た目も豪勢だが、もちろん味も大満足であった。肉の焼き物、寿司、天ぷらまで付いたメニューで値段はたったの1500円というから驚きだ。

ざっとまとめたが、振り返ってみても素晴らしい1泊2日であった。もしお近くにお住まいの読者がいたら、今度眺海の森に足を運んでみるのはどうだろうか?

***LINK***
眺海の森 酒田市: http://www.city.sakata.lg.jp/culture/sports/f0673pd0622104209.html
眺海の森 松山スキー場 SURF & SNOW: http://snow.gnavi.co.jp/guide/htm/r0734s.htm
眺海の森 さんさん: http://www.matsuyama33.com/

2012年12月31日月曜日

主体101年の回想

大晦日ということで、今年1年を振り返ってみるとしよう。

やはり共和国的には人工衛星打ち上げ成功が大きいだろう。金日成主席の生誕100周年であった今年は、強盛大国の大門を開く年と位置づけられていたが、ある程度は達成できたのではないか?金正恩第一書記の卓越した指導力は実に頼もしいものである。

国内情勢としては、自民党の政権奪取があった。私にとっては初めての選挙であった12月の衆院選で、私は自民党の政権奪取を阻止すべく共産党へ投票したのだが全く期待外れの結果となった。来年以降の日本は悪い方向へ進んで行くのではないかと思う。

社会的話題は他には特筆すべきことはないように思う。去年が色々あり過ぎたということもあり、率直にいって印象の薄い1年であった。

続いて、個人的なことに触れよう。今年は私生活の上で重要な変化があったが、これについては最後に記そうと思う。

まず、今年新しく進展した出来事を書いていこう。

4月に学科勢の友人の協力を得て新しいPCが組み上がった。自分にとっては2台目のPCで、自作は初めてであった。第2世代Core i5ベースの高性能システムで、色々と捗る。このスペックを活かしてBF3とLOLを始めた。

7月に私は20歳になったが、これに関連していくつか小さな変化があった。飲酒、喫煙の合法化や、国民年金への加入、選挙権の獲得などがあったが、あまり重要な変化はない。しかし、成人式後の同窓会に誘われなかったことで自分の人間関係の脆さがますます露呈し、20年間の人生に対する深い反省が求められるというようなことはあった。

9月から運転免許取得に挑戦し始めた。これはなかなか苦戦していて、年内では仮免までしか到達しなかった。免許取得は来年の取り組みにかかっている。

続けてネガティブなことも書いていこう。

大学生活は端的にいってあまりうまくいっていないと言える。

4月時点では学科勢を誘ってサークルに再チャレンジしようという目論見もあったが、結局頓挫している。バイトも結局しなかった。大学生活2年目になってもサークルやバイトをしなかったということは、私の大学生活がそういったものとは無縁のものとなることが99%確定したようなものである。また、学科勢との交友関係の維持もギリギリである。今年に入ってから会話頻度は激減し、レポートの相互協力や長期休みのみ行われる集会によって辛うじて関係を保っている状態だ。

そして、大学関連で最も深刻な問題として、8月に一挙に5単位を落とすという事件があった。単位を落とすのは初めてのことだった。落とした科目はすべて今年から本格的に開始された専門科目であり、専門科目の難しさを痛感する結果となった。今後も継続して単位を落とし、留年へと繋がる恐れも大きく、現に後期でも既に1単位の不可が確定した。単位の問題はいま私にとって最も頭を悩ませている問題であり、実につらい。うつ病になりそうだ。努力と才能の両方の不足が原因だが、才能はどうにもならないし、努力もいまの自分にはとても難しい。

また、大学以外でも今年は悪いことが多かった。

9月に高校で最も仲が良かった友人との絶交があった。破綻に至ったのは仕方が無いことだと思うし、善後策を取る努力もしたと思うから後悔はない。しかし、仲が良かっただけに簡単に関係が破綻したのは本当にショックであった。認めたくはないが、人との関係は簡単に崩壊するものだと思い知らされた。

しかし、これまでに上げたことはどれも今年で最も辛かったことではない。自分にとっては10月に祖父が他界したのが最も辛かった。これについてはあえて多くは語らないでおこう。まぁともかく今は喪中であり、正月といってもちっともめでたくないのだ。

振り返ってみるとネガティブなことが多かった一年だ。しかし今年は大きな新たなる希望が生まれた。それは、最初の方で書いた「私生活の上で重要な変化」のことである。

3月に彼女ができた。人生で最初の彼女である。そして、人生で最後の彼女になってほしい、要するに生涯を共にしたいと願っている。

まぁ、本当に明るい話題だ。むしろ、これが無かったら2012年という年は全く意味がないし、真っ暗闇である。

彼女はTwitterで知り合った人で、まぁいろいろとすれちがったりぶつかることはあるのだけど、境遇とか似てて気の合うタイプだし、自分をここまで受け入れてくれる人はたぶん他にいないと思う。本当に可愛いと思うし、ずっと大切にしなくてはと思う。

まぁ、そんなわけで今年はデートとかたくさんしたし、海とか温泉に一緒に行ったりもした。クリスマスを初めて家族以外と過ごした。1月にスキーに一緒に行くのももう決めている。本当に楽しいものだ。

まぁ、この出来事はすごく重要で、幸せの定義とか人生の意義とか、わりと深いレベルの意識まで変革するような出来事だった。だから、なんというか、2012年というのは大きなターニングポイントになったと思う。そういう意味では今年は非常に重要な1年だった。

読み返してみると実に駄文ではあるが、一応振り返ることはできたからここで今年1年の筆収めとしよう。というよりBlog収めか?まぁともかく、次の更新は来年である。

みなさん、良いお年をお迎えください。

2012年12月16日日曜日

選挙!

開票速報出てますな、ということで当ブログでも速報的にレビュー。

私にとってははじめての選挙だったのでなかなか興味深いものだった。もちろん入れるのは小選挙区も比例代表も代々木に本部がある某党。小選挙区制は代々木に投票するとほぼ確実に死票になるので本当に張り合いのない害悪制度だなぁ。最高裁の国民審査も左翼的に判断して何人か×をつけてきた。正直×をつけるという制度は誰かを引きずり落とすようで気が進まないけど、どうせ国民審査でやめさせられるってのはないでしょ、前例からいって。

投票所は家の近所で非常に便利だった。体育館のような会場だった。あらかじめ郵送されてる投票権を窓口にみせると、まず小選挙区の投票用紙をもらえる。そうするとニュースでおなじみの金属製ついたて付きテーブルまで行って、ここで投票用紙に記入する。テーブルにはBくらいの濃い目のえんぴつが備えてある。記入は自由記入式で自分で名前を書かないといけない。私としては漢字を間違えて無効票にならないか不安だったが、このテーブルには「金正恩 朝鮮労働党」みたいに候補者と推薦政党が一覧になった紙が貼ってあったので、それをみながら書けば問題なかった。書いたら金属製の投票箱に入れる。引き続いて違う窓口で比例代表と最高裁の用紙をもらい、投票権はここで回収。比例区は自由記入式で、最高裁は名前の一覧から×をつける方式だ。比例区も「朝鮮労働党 労働」みたいに党名と略称が一覧になったカンニングペーパー付きだから安心だ。比例代表と最高裁の用紙を投票箱に入れると選挙は終了。意外とあっさりしたものだ。

速報を見てると自民圧勝で本当に腹が立つ。民主がダメだから自民ということなのだろうけど、どうなんだろうなぁ。みんな自民に何を期待して投票しているのだろう?国防軍か?

まぁ他人様の投票行動に文句をいうのはやめておこう。こんなの好きなところに投票すればいいんだし、別に投票しないのも勝手だ。代々木は死票になるから妥協して民主、とかいう考えもナンセンスだと思う。別に単なる意思表示なんだからいちばん好きなところに入れればいい。

運転免許補完計画 第3次中間報告書

今日の報告では修了検定と仮免学科試験のことについて書こうと思う。

修了検定というのは、まぁ実技テストだ。学校内の決められたコースを運転して教官に採点してもらう。仮免学科試験はペーパーテストだ。この2つの両方に合格しないと先に進めない。しかも失敗すると12kくらい追加料金がある。

検定は土曜日の朝8時30分から行われた。私は早起きが大嫌いであるし、前日は緊張してあまりよく眠れなかったので非常にしんどかった。本当にこういうスケジュールを設定されるのはムカつくものだ。まぁ、時間的にはギリギリで遅刻にならずに済んだが、3分くらいしか猶予がなかった。部屋に入るとなにやら普通の学科が始まった。教官に「え、これ検定じゃないの?」などととぼけたことを聞くと、やはり私は部屋を間違えたらしい。まぁ正しい部屋に案内してもらえたので事なきを得た。どうでもいいことだが、部屋の移動のときにショートカットで普段は入れない教官室を通ることができて面白かった。

最初に説明を聞く。どうやらコースミスは減点対象にならないらしい。前にコースミスしたときに、朴正煕似のおっかない教官から、「なんで右って言ってるのに左に曲がるんだ?!これが検定なら指示違反で一発アウトだからな!」とか怒られたけど、それはウソらしい。これで安心してコースミスができるぞ。(フラグ

修了検定はひとつの教習車に複数人で乗り込んで行う。コミュ症としてはこれも地味に厄介だ。一緒になったやつらはコミュ症っぽい男子が2人と眼鏡をかけた真面目そうな女子が1人だった。みんな年齢不詳だけど、まぁだいたいの人は大学1年で免許取るからたぶん年下だろう。自業自得とはいえ1人だけ年長者というポジションは不愉快だ。教習車に乗るときに真面目そうな女子が「頑張りましょうね!」なんて気丈に話しかけてきたけど、男子が全員コミュ症なせいで誰も返事をしなかった。私がワンテンポ遅れて返事をしたけど、検定直前のタイミングで気まずい空気になってしまいかわいそうだった。本当にコミュ症ってやつは害悪だなぁ…。

4人全員が乗ると最初にお手本を見せられるのだが、その後は一度に乗るのは2人ずつで他の2人は待合室で待っている。私はラッキーなことに最後の順番だったので待合室に入った。待合室は他の教習車のやつらもいたけど、もちろんみんな無言である。雨が天井を叩く音しかしない無音の待合室の中で30分くらいも待つのは非常にしんどかった。こんなことならケータイでも持ってくればよかった。

まぁ、そんな感じでようやく自分の番になった。直進コースで30km/h出すことになってる。セカンドギアでもいけるけど、テクをアピールする為にサードまで入れるべきか、それとも余計なミスの要因を減らすためにセカンドで行くか、非常に迷いどころではあったが、前のやつがサードにしてたので私もサードにした。それから踏み切りとか坂道とかクランクとかお決まりの厄介ごとをこなしていく。あと、安全確認が本当にしんどい。突っ込まれないように異常にキョロキョロしながら運転した。まぁなんとかボロを出さずに経過していたけど、教官がやたらと何かをメモしているのが非常に気になった。前のやつのときはほとんどメモとかとってなかったのに、何をそんなにメモしているのだろう?やはり無自覚のうちにいろいろまずいことをしているのだろうか?

そしてとうとうやらかした。S字を出てから左に曲がるのだが、ナチュラルに右に曲がってしまった。教官が「左折って言ったんですけどねぇ」とか言ったところでようやく気付く。安定のフラグ回収である。もうこうなると総くずれみたいな感じで一気にいろいろやらかしだす。コース修正で交差点に入ったら前に1台車がいて、このことで後ろの交差してる道路にはみ出してしまい、「後ろにはみ出して車線ふさいでるけどいいのかなぁ?」とか教官に注意された。いままでの教習で交差点で前に車がいるという状況はなかったのでそんなことは全然知らなかった。なぜよりによって検定、しかも空いている時間にこういうことが起こるのか、非常にアンラッキーである。しかしまぁ、検定で注意されちゃうのはイカンでしょ。それから、ナチュラルに二速発進もやらかした。エンストしなかったし揺れもなかったけど、たぶんバレてるでしょ。

まぁそんな感じで検定は終了。車から降りて教官のありがたいお言葉を聞くのだけど、最初に「どこが悪かったと思う?」とかなぜか質問された。二速発進についてはどうせバレてるだろうけど黙秘して、コースミスと交差点とだけ言っておいた。正直いってこっちに質問しかけてくる系の教官は普段の教習でも本当に苦手である。その後にありがたいお言葉が始まった。「運転操作が不慣れ。発進でメータみたりギアチェンジでレバーみたりしてる。でも慎重に運転していたので幸いにして大きなミスにはならなかった。しかし実際の路上はもっと難しい。もっと慣れていきましょう」とのことだった。なんというか合格とも不合格とも解釈できる表現である。

校舎に戻ると放送で合格発表される。結果は合格!まぁ本当に危なかったけど、なんとかなってよかった。

この後に学科試験をやったけど、これについて語ることはあまりない。要するに簡単だ。いや、問題自体はかなり専門的だし結構ひねってあって、合格点も90%だから大変といえば大変だけど、出る問題は問題集と同じだから勉強すればいける。ということでこれも合格

これにて無事に仮免許の交付が決定し、 晴れて第2段階へと駒を進めることになった。

まぁ嬉しいのはもちろんだけど、ここまでやってまだ半分も来てないのかという思いが強い。そして修了検定ですらこんなに難しいのだから卒業検定はますます難しいのだろうと本当に不安になる。そして第2段階では技能でも学科でも集団で行うコミュ症殺しの項目が複数ある。さらにこれからの時期は高校生とか大学新入生が増えて老害にはつらい。そもそも路面が凍るし運転に向かない季節だ。本当に前途多難であるなぁ。

まぁ、教官は合格後の説明でさっさと予約取れ、今日取れって言ってたけど、とても疲れたのでもう年内はやらなくていいでしょ。

というわけで、来年になってからまた第4次以降の報告も上げていこう。それではまた…

2012年12月11日火曜日

運転免許補完計画 第2次中間報告書

今回からは実際の教習について書いていく。

まず学科。50分1コマで、第1段階で10コマ、第2段階で16コマある。出席して聞いていればよいだけで、それこそ誰にでもできることだ。現に、私も学科については第1段階の分はすべて終わってしまった。しかし、ここでしっかり勉強しないと試験のときに困るかもしれない。内容はそこまで退屈なものではなく、むしろいままで知らなかった身近な交通の知識を教えてもらえるので面白い。だが、私の自動車学校では結構当てられるのでそこが厄介である。

個人的に面白いと思ったのは、学科で使う教本が某巨大自動車資本のTOY○TAの発行であったことだ。派遣労働者を使い捨てにする大企業はプロレタリアートの敵である。T○YOTAはCMでもドラ○もんを使って運転免許の宣伝をしてくるが、自動車業界のリーディングカンパニーとしてよほど「若者のクルマ離れ」が心配なのだろう。クルマ離れも要するに若者があまり金銭的余裕がないことが原因である。CMを打ったりするカネがあるならまずは自分のところで働いている労働者の賃金を上げてみたらどうだろうか。

また、学科ではビデオを見ることがある。私の自動車学校では「テク○カAV」というシリーズを使っていた。内容は実際の公道でクルマを動かしながら様々なシチュエーションを再現するものだ(公道を貸しきって撮影したのだろうか)。映像には私の育った町である杉並区の道路で撮影したと思われるものも入っていて、自分の知っている風景が写ることもちらほらあり、非常に嬉しかった。故郷との意外な形での再開である。

学科については特筆することはこれくらいなので、以降は技能をメインに書いていこう。技能で使うクルマはマ○ダのアク○ラというクルマであった。コースは土地が狭いのであまり広くはないほうだと思う。

技能は非常に難しく、最初の1時限目から挫折してしまった。というかいままで知らなかったことが多すぎる。例えば、クルマの周りを歩くときは必ず右回り(右ハンドル車の場合、助手席→ボンネット→運転席→トランク→助手席)に歩くというきまりがあるらしい。安全確認上の理由だとか。あと、ドアを閉めるときは急にバタンと閉めてはいけなくて、一回閉まる手前で止めてから閉めるらしい。実家に帰ったときに家のクルマでこの閉め方を真似したら半ドアになってしまったがwでも、やはり急に閉めるのはよくないだろう。以前家のクルマで親がドアをバタンと閉めたら、その衝撃でリアウィンドウが粉々に割れ落ちたこともある。クルマは精密機械なのだなぁ…。

難しいことは山ほどあるが、特に問題になるのは半クラッチというMT独特の操作である。クラッチというのはエンジンと駆動輪を接続する装置で、これの操作は左足でクラッチペダルというのを踏んで行う(ATだと機械がやってくれる)。工学部だが機械系ではないのでこういう辺りにはあまり明るくない。当然エンジンと駆動輪がつながらないと動けないのだが、いきなりつなぐと負荷が多すぎてエンジンがストップする。これをうまくやるのが、エンジンと駆動輪を半分くらいつなぐ操作である半クラッチである。何が難しいかというと、このペダルはなぜか前と後ろに大きく遊びがとってあって、半クラッチを実現するにはごく狭い範囲にペダルをキープしなければならない。このペダルはバネで勝手に上がってくるので、ちょっとした拍子で一瞬でも力が緩むと即エンストである。難しさが伝わっただろうか?この操作がうまくいかなかったのが原因で1時限目からオーバー(やり直し、再履修)となってしまった。この操作はMTでは発進や徐行のときに必ず必要なのでこれが下手だと後々まで尾を引く。まぁ、要するに運動神経というか、左足の筋肉がないと難しいのだ。

そんな感じでいろいろと苦戦したが、本日でようやく学科、技能とも第一段階のカリキュラムはすべて完了した。技能のオーバーは計3つであった。土曜日に検定を受け、合格ならば仮免許交付で路上教習に移行する。とうとう池沼が野に放たれるときがくるのだ。さて、吉と出るか凶と出るか?乞うご期待!

2012年12月8日土曜日

さーひる風実験グラフ作成術


図1:Level Shift Diodeがある場合とない場合の入力電圧と出力電圧の関係


こういう真面目な理系記事にどの程度需要があるか分からぬが、ふと思いついて私が普段実験レポートでグラフを作るときに気をつけていることをまとめて書いてみようと思う。最初に断っておくと、私が使っているのはMicrosoft Excel 2003であり、より専門的なグラフソフトを使うほどの技能はない。ここに書くことは、高校時代に科学部で顧問の先生や先輩から教わったことをベースに、大学で聞いたことや自分で調べたことを加えてアレンジした知識である。高校の科学部で教わったノウハウは非常に有用で、特にあるとき2つ上の先輩から部員を集めてこういったグラフの作り方、他にレジュメやプレゼンの作り方などをレクチャーしていただいたことが印象に残っている。もちろんいまでも知識や技術でその先輩には遠く及ばないが、私もそういう風に知識を自分なりにまとめてみたいと思ったのだ。

本題に入ろう。今回は以下の表1のようなデータから冒頭の図1のようなグラフを作成することを目標としたい。表1で左側の2列が"with Level Shift Diode"、つまり図1における赤い線のグラフに対応し、さらにその2列の中で左側の列に横軸の"input voltage /v"、右側の列が縦軸に"output voltage /v"のデータが並んでいる。同様に右側の2列は青い線のグラフに対応し、2列のうち左側の列に横軸、右側の列に縦軸のデータが並んでいる。ちなみに、このグラフとデータは電子回路の実験のグラフであり、私が実際に大学の実験科目のために作成したレポートからほぼそのままの形で抜き出したものである。

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表1:Level Shift Diodeがある場合とない場合の入力電圧と出力電圧の関係
with Level Shift Diode without Level Shift Diode
入力電圧 /V 出力電圧 /V 入力電圧 /V 出力電圧 /V
0.22 4.99 0.06 4.96
0.4 4.95 0.12 4.92
0.61 4.32 0.18 4.75
0.66 3.99 0.22 3.99
0.71 3.64 0.35 3.41
0.76 3.35 0.41 2.88
0.8 2.96 0.46 2.48
0.87 2.49 0.52 1.91
0.9 2.12 0.59 1.26
0.97 1.62 0.65 0.75
1.03 1.09 0.71 0.32
1.09 0.64 0.76 0.24
1.16 0.27 0.84 0.18
1.25 0.18 1 0.14
1.44 0.14 1.24 0.12
1.65 0.12 1.49 0.11
1.8 0.1 1.96 0.09
1.99 0.09 2.57 0.08
2.5 0.08 3.03 0.08
3 0.08 3.54 0.08
3.49 0.08 3.98 0.08
4 0.08



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実験について専門的な説明をしよう。この段落はよく分からないときは最悪読み飛ばしてもいいだろう。これは、ある半導体回路にLevel Shift Diodeという部品を加えた場合の効果を確認する実験である。この半導体回路には入力端子と出力端子があり、入力端子に低い電圧をかけると出力端子には高い電圧が、入力端子に高い電圧をかけると出力端子には低い電圧がかかる仕組みになっている。入力端子にかける電圧を徐々に上げてゆくと、ある値で出力端子にかかる電圧が急落する。この値をスレッショルド電圧というのだが、Level Shift Diodeがある場合はこのスレッショルド電圧がない場合と比べて高いことがグラフから読み取れると思う。つまり、Level Shift Diodeにはスレッショルド電圧を上げる効果があるということを確かめる実験だ。では、次の段落から実際にグラフの作り方に入っていこう。

  1. 基本は散布図
     
    "何をするにも最初が肝心、という格言はどんな学問にもあてはまる"
    -カール・マルクス
    
    

    最初にすることは、表1のデータをExcelに打ち込み、データをすべて選択してグラフ作成ウィザードを起動することである。そうすると折れ線グラフだの棒グラフだのいろいろな種類を選ぶことができるが、基本的には散布図を 使おう。横軸のデータが時間や質量、電流、濃度などの連続量である場合はとりあえず散布図だ。散布図には近似曲線が入れられるし、どのような順番でデータ が入っていても問題なくグラフを作成できる。折れ線と紛らわしいが、折れ線はデータポイントを勝手に線で結んでしまい本質の理解の妨げになるからあまり使うべきではない。横軸のデータが連続量ではない場合(いろいろな元素の第1イオン化エネルギーをグラフにするとか、各金属の標準電極電位をグラフにするとかの場合)は折れ線グラフや棒グラフを使うのが適切である。

    図1のグラフでは平滑線つき散布図を使った。ただし、どんなときでも平滑線を入れればよいということではない。平滑線はありもしないピークを作り出したりして混乱のもとになる場合もあるし、実験式が予測できる場合(比例関係など)なら、平滑線ではなく近似曲線を入れるべきだ。近似曲線を入れるときは、まずは普通の散布図を選び、グラフが完成してからデータ系列を選択して右クリックメニューの「近似曲線の追加」から好きなタイプの近似曲線を選べばよい。近似式を表示することも可能だ。
  2. グラフの系列


    "人間がすべての事の主人であり、すべてを決める"
    -金日成
    
    


    図2:デフォルトのグラフ

    とりあえずグラフを作ると、Excelのデフォルトでは図2のような感じのものができると思う。まぁデザイン面もいろいろと図1とは違うのだが、最も重大な問題はグラフの形が全然違うし、系列もなぜか3つもあるということだ。これは数字の羅列のうちどの数字とどの数字が組になっているか?というグラフの系列をコンピュータが正しく理解できなかったことが原因だ。たいていの場合はExcelはグラフの系列を自動的に正しく理解してくれるので、自分の思い通りのグラフが完成していたらこの段落は飛ばして構わない。しかし、今回のように複雑な場合はこういうミスを犯す。このようにできあがったグラフが自分の考えていた形と全く違った場合、これを直すには人間が手動で正しいグラフの系列を決めなければならない。

    まず、グラフを右クリックして「元のデータ」を選ぶ。「系列」タブを選択するとグラフの系列の調整ができる。今回は横軸に列Aのデータを、縦軸に列Bのデータを使用する"with Level Shift Diode"系列と、横軸に列Cのデータを、縦軸に列Dのデータを使用する"without Level Shift Diode"系列の2系列のグラフを作りたいので、そのように入力すればよい。この画面では、系列の名前を決めることもできるので、ここで決めておく。これらの入力の際は、手入力の代わりにセルを選択して入力とすることができるので、積極的に活用しよう。また、必要な系列は2つなので、最後の1つは選択した状態で削除ボタンを押して消してしまう。

    こういってもよくわからないと思うので、実際にグラフの系列の調整をしているところのスクリーンショットを図3に載せておこう。

    図3:グラフの系列の調整
  3. Axis Label
     
    "抽象的な真理などない、真理は常に具体的である"
    -ウラジーミル・レーニン
    
    

    この段階ではまだグラフは未完成だ。というのは軸の数字が何を意味しているのかが書き込まれておらず、このままでは抽象的過ぎるからだ。右クリックでグラフのオプションを選択しよう。ここで軸にタイトルをつけることができる。

    タイトルはただ電圧とか書くのではなく、どこの電圧なのかが分かるように書こう。また、単位が必要だ。今回は"Input Voltage"とかいうふうに英語でタイトルをつけた。別に日本語でもいいのだけど、英語で書いたほうがスタイリッシュである。それに、サイエンスの世界では英語が共通語なので、こういうふうに積極的に英語を使うとテクニカルターム(英語の専門用語)が覚えられて便利だろう。それに、日本語で書いた論文を英語に直すとき、このようにしておくと面倒なグラフの差し替えをしなくて済むかもしれない。ただし、スペルミスがあると非常に恥ずかしいのでよく確認しよう。私は英語が苦手なので、簡単な単語でもネットで正しいスペルを調べてから書いている。

    次に、単位のつけ方だ。単位のつけ方は"(V)"とか"[V]"とかいろいろな流儀があると思うが、私はスラッシュを使う"/V"の使用を強く推奨する。大学の先生に聞いたのだが、

    (量)=(数字)×(単位)

    という風に量を数字と単位の掛け算としてみる考え方がある。量は入力電圧とかのこと、数字は電圧値などの量から単位を抜いて数字だけを抜き出したもの、単位は"V"とかの単位だ。"0.22 V"という量なら、"0.22"というただの数字に"V"という単位を掛けたものだ。目盛りに振ってあるのは1,2,3,4,…というただの数字で、単位はついていない。上の式を変形すると

    (数字)=(量)/(単位)

    となるから、目盛りの数字を説明するのにふさわしい表記は、"Input Voltage"という量の説明の後にスラッシュで"/V"を付け加えたものなのだ(なお、美観のために"Input Voltage"と"/V"は1スペース離している)。この書き方で注意したいのが単位の表記法だ。"m/sec"というような組立単位があるが、これをそのまま"m/sec"と書くとスラッシュだらけでよく分からないことになる。こういう組立単位の場合は"m・sec^-1"というようになるべく指数形式の表記を使うようにしよう。
  4. 細部のカスタマイズ
     
    "マルクス主義の道理は複雑だが、つまるところ一言に尽きる。造反有理だ"
    -毛沢東
     
     
    ここまでで一応グラフは完成したが、これでは美しいグラフとは言えない。Excelがデフォルトで押し付けてくる設定に反抗し、各所に自分好みのカスタマイズを行うことで美しいグ ラフを作ることではじめて美しいグラフを作ることができるだろう。以下に箇条書きで私のやり方を書いていこうと思う。

    •  プロットエリアの領域を削除
      Excel2003ではプロットエリアがなぜか灰色に塗りつぶされている。特に印刷したときなど、これは非常に邪魔なので削除してしまおう。削除はプロットエリアをダブルクリックして「プロットエリアの書式設定」を開き、「領域」で「なし」を選べばよい。「輪郭」も「なし」にしてもよいが、図1では色を黒に変えて残している。
    • グラフエリアの輪郭を削除
      グラフを文書などに挿入すると、グラフエリアの輪郭も邪魔である。一般的に論文に登場するグラフにはこういう輪郭はない。グラフエリアをダブルクリックして、「輪郭」で「なし」を選んで削除しよう。
    • タイトルの削除
      デフォルトでグラフにタイトルが挿入される場合があるが、その場合はこれも削除してしまおう。タイトルを削除すると何を意味しているグラフなのか分からなくなってしまう。しかし、文書などにグラフを挿入するときは下にキャプションを入れることが常である(図1でもそうなっている)。ならば、グラフの上部にも同じことが書かれているのは冗長でかえって見苦しいので削除したほうがよいだろう。
    • 軸の調整
      軸もデフォルトのままではいけない。軸をダブルクリックして「軸の書式設定」を開こう。まず、「目盛」タブを開く。ここで「最小値」と「最大値」を調整し、グラフがプロットエリアいっぱいに描かれるようにする。左側のチェックマークがついている項目は自動で調整される。必要な場合は「目盛間隔」も調整しよう。また、「表示形式」タブをに移動して「分類」の中から「数値」を選び、「小数点以下の桁数」を調整すれば、"2.00"のような有効桁数を強調した目盛を振ることもできる。
    • 凡例の削除または位置変更
      デフォルトで凡例が挿入される場合がある。この場合、もしもグラフが1本だけなら凡例は不要なので削除してしまおう。グラフが2本以上のときは凡例は必要なので残しておくが、この場合もなるべく位置を変更してプロットエリアの内部に入れてしまう。そうしたほうがプロットエリアを広く取ることができるからだ。入れる場所はだいたい右上か右下で、グラフにかぶらないような位置にするべきである。凡例をプロットエリア内に入れたら、プロットエリアをドラッグで広げよう。なお、図1では美観の為に凡例の輪郭も削除した。
    • 配色の調整
      グラフの色を見やすい色に調整しよう。最近のExcel2007やExcel2010ではデフォルトでも結構見やすい色を出してくるが、旧式のExcel2003ではこの調整は重要だ。データ系列をダブルクリックすると「データ系列の書式設定」が開くので、ここで色を調整する。変更する箇所は3つあるので系列が多いと少し面倒である。ディスプレイ上では見やすくても印刷すると見えにくいこともある(加法混色と減法混色の違い)。特に黄色やピンクは印刷すると見えにくい。この調整については、モノクロで印刷するときは特に注意が必要である。
    • 縦長のグラフか横長のグラフか
      最後に、グラフの縦横比を調整する。図1のグラフはなるべく横長のグラフにすべきである。なぜかというと、このグラフで主張したいことは"Level Shift Diodeがあるとスレッショルド電圧が上がる"、つまり"赤いグラフは青いグラフよりも右側で急降下する"ということだからだ。要するに、なるべく赤いグラフが急降下する位置と青いグラフが急降下する位置を離してみせたいので、横長のグラフにするというわけだ。もし縦長のグラフにすると、赤いグラフと青いグラフが接近してたいして違いが分からなくなってしまう。このように、自分がそのグラフで何を主張したいのかを考えながら、縦長のグラフか横長のグラフかどちらが適切なのかを見極めよう。もちろんこれはグラフを貼り付けるスペースとも相談する必要がある。

    美しさは重要である。科学部の時代に顧問の先生はしょっちゅう私の論文に「美しくない」という指摘をしていた。しかし、"美しい"という判断基準は人それぞれなので、ここは個性の出る部分でもある。上に上げたのはあくまでひとつの参考なので、いろいろと改良してみてほしい。
以上、4項目に分割して私のグラフ作成術をまとめてみた。いろいろとおかしい点もあると思うけれど、私と同じように実験グラフを作るような人にとって参考になる内容になっていたら幸いである。質問や指摘がある場合はコメント欄かTwitterにお願いしたい。