2012年11月14日水曜日

“ぼっち”の原因論的考察 –積年の黒歴史にメスを入れる-


今回の記事では自分の黒歴史についても取り上げていこうと思う。もう十分に時間がたったし、時効というものである。

なぜ自分に友達ができないかという理由に関しては、例えば池沼だからだとか、無趣味だからだとか、昔から友達がいなくて作り方がわからないから(ぼっちの再生産説)だとかそれこそいろいろな理由の付け方があるだろう。しかし、今回はこういう理由ではなく、もっと本質的であり、かつ挽回可能な理由を取り上げたい。

言ってしまえば単純だが、要するに「友達を作ろうとする努力が足りない」のである。いや、「してない」というべきか。このことを自覚したのは毎週の学部実験の時間である。

学部実験は4人チームで行うのだが、私以外の3人はリア充で友達同士らしくよく話している。まぁ、私も話しかけられたときくらいは受け答えるし、業務連絡は普通にやる。私は池沼ではあるが、実験の合間に話すような浅い会話でなら私でもボロを出さずに済むし、私は実験の作業の中で中心的役割を果たしているから、チームメンバーからはたぶん嫌われてはないと思う。メンバーの1人など、学期終了後に私を労う意味も込めて打ち上げパーティをやろうなどと言い出したほどである。だがしかし、私はその日の実験が終わると挨拶だけして即座に帰ってしまう。

何回目かで気付いたのだが、これは高1の部活に入りたての時期によく似ているなぁ、と感じた。私は高1の秋に突如科学部に入部したのだが、当初は部活内はもちろんのこと学年内にも友達がいなかったので、コミュニケーションに対して非常に臆病であった。そして、このときも学部実験と同様に、部活の時間内はある程度普通に部活のメンバーと会話をするのだが、部活の終了時間になると他のよりも5分ほど先に帰ってしまうということがあった。

こういった状況を見かねて、顧問のG先生が「みんなと一緒に帰ってみたらどうか?」とアドバイスしてきた。結構怖かったが、当時の私はG先生をネ申のように崇拝していたのでその通りにしてみた。まぁ、結果からいうとこの試みは成功した。もともと(入部当初は)部活のメンバーは先輩後輩ともに私に好意的だったので、私は様々な池沼プレーをしでかしたにも関わらず友人の1人として受容されていった。残念ながらその後でいろいろとやらかしてこの部活は退部してしまったのだけど、それでも得るものは莫大であったと思う。なんというか、みんなで協力した文化祭とかではいわゆる青春のようなものの片鱗を味わったし、休みの日にみんなでカラオケやボーリングをしたりするという経験もして、こういうことはいままでの人生ではじめてだったので非常に楽しかった。

あと、この段落はぼっちの話題とは関係ない余談だけど、科学部で実験をたくさんしたことで実験技術やデータのとり方、考察の仕方に自信がついた。今日の学部実験で中心的役割を果たせているのはこの為だ。レポートの作り方も勉強した。私が学部実験で提出しているレポートの体裁は、もとをたどれば科学部時代にG先生から指導を受けながら苦心して作ったレポートから真似たものだ。

まぁ、なんというか思い出語りになってしまったが、要するにぼっちの原因は友達を作ろうとする努力が足りないことなのである。もちろん科学部の体験のようにすべてのケースがうまくいくわけではないが、努力しないことには始まらない。買わない宝くじは当たらないのだ。

思えば、去年サークルに入ったときももう少し頑張ればよかった。私はサークルでいじられキャラが確定してしまったので嫌気が差してすぐ距離を置くようになってしまったが、これはまずかった。いじられキャラのポジションは本当に苦痛だが、少なくともいまと違ってまわりに人は居たのだ。中には心ある人も居たかもしれないし、あるいはサークルの人間の友達とのつながりを作ってその人と友達になるといったソリューションもあったかもしれない。

でもまぁ、やはりいじられキャラはつらいので逃げてしまった。これは当初の目標設定に問題があったからだと思う。当時大学に入りたての私はいわゆる「大学デビュー」を志向していた。私の目標は、「大学ではなにかのサークルに所属し、友人をたくさん作り、あわよくば彼女を見つけよう」という非常に野心的なものであった。上昇志向といえば聞こえはいいが、土台無理な話であった。無理をして入学前のパーティに参加したり、Twitterで友達作りに励んだりもしたけどうまくいかなかった。こういった中で、自分は精一杯の努力をしているにも関わらず、全く目標どおりにはならないという現実に疲れ果て、ノイローゼ気味にまでなり、結局人間関係を自ずから遮断するという行動になってしまった。

考えてみれば、もう少し低く目標設定すればよかったと思う。たくさんの友人や彼女は作れなくても、1人、2人と着実に自分の友達を増やしていこう、という考え方でよかった。自分にはもともと冒頭で述べたようなハンディキャップがあるので、1人でも友達が作れればそれは偉業である、という考え方をすべきであった。

いままでで述べてきたことは2点に集約できる。1つ目は、ぼっちになってしまう原因はハンディキャップがあるからではなく、友達を作ろうとする努力が足りないからであるということだ。2つ目は、ハンディキャップがある場合は目標を高くしすぎると結局追い詰められて努力をやめてしまうということだ。

ハンディキャップに対するベストな対処としては、それを理由にして努力をやめることでもなく、またその存在を無視して高い目標設定をすることでもない。精一杯の努力をしつつも、うまくいかなかったときは「自分にはハンディキャップがあるから仕方ない」と自分を許していくことが肝要だ。

まぁ、残念ながらこのような理論が実践されても私はすでに大学2年生である。悲しい事実だが、私はもはや青春を謳歌するのには手遅れである。何をしても無駄なのだ、死ぬしかないのだ。

1 件のコメント:

  1. 今さらコメしてすんまそん。
    さーひるさんがおれのブログにコメしてくれてるのに、おれがお返ししないのは不公平だと思ったんだ。

    ブログの更新楽しみにしてるよ!
    友達を作ろうとする努力か・・・難しいね。
    やはりお互いがまだ知らなかったあの入学当初が一番友達を作りやすい環境だったと思う。
    今はグループごとに固まって行動しているから、話しかけづらいよ。

    ※尚、このコメは非公開でお願いします。

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