2013年7月19日金曜日

鶴岡市櫛引にてさーひる城を現地指導

山形県指定史跡 丸岡城跡
久しぶりに書きます。
時系列で書くつもりだったけど、なかなか昔のことは書きにくいし、思い切って最近のことから再開してしまおうと思います。

今日は「さーひる城」のはなしをします。さーひる→CircleHill→丸岡、要は「丸岡城」のことなんですが(笑)。

丸岡城というと福井県の丸岡城が有名ですが、今回お話する丸岡城は山形県鶴岡市、櫛引(くしびき)の丸岡という地区にあります。このまえ恋人からそこに連れて行ってもらいました。

櫛引は鶴岡市の南東部に位置し、2005年に平成の大合併で鶴岡市と合併するまでは櫛引町というひとつの町でした。庄内平野の肥沃な大地を生かした庄内米(はえぬき、つや姫など)の生産、さくらんぼなどのフルーツの栽培が盛んで、シーズンにはさくらんぼ狩りなども行われています。なお、山形県はさくらんぼの生産量が日本一(シェアは7割超)だそうです。

櫛引はなかなか古い歴史を持つ地域で、最初に歴史に登場するのは奈良時代です。当時はいまの日本国の版図の全域には天皇勢力の支配は及んでおらず、出羽国と呼ばれていた山形は、天皇を中心とするヤマト王権の侵略軍と、蝦夷(えみし)といわれたこの地に先住していた北方民族との対立の最前線でした。ヤマト王権は、出羽国の開拓、軍事に従事させるために、信濃国、上野国、越前国、越後国(いまの長野、群馬、福井、新潟にあたる地域)からそれぞれ100戸を移住させました。移住してきた彼らによって櫛引の地は拓かれたのです。「丸岡」という地名は、越前国からの移住者が福井県の丸岡(有名な方の丸岡城がある)にちなんでつけたといわれています。

丸岡城が最初に築かれたのは戦国時代のことで、鎌倉時代から周辺一帯を治めていた地頭の武藤氏によって、大宝寺城(鶴岡市中心部にあった鶴岡城の当時の呼称)の支城として築かれました。櫛引は山形県の内陸方面へと向かう「六十里越街道」の通り道になっていて、交通の要所ということで支城が築かれたようです。六十里越街道は現在では国道112号線櫛引バイパスと名前を変えていまも近くを通っています。

櫛引の黒川という地区には、「黒川能」という伝統芸能がありますが、この黒川能は一説によると武藤氏十二代当主の淳氏が京に上洛した際に、能役者一行をこの地に連れ帰ったのが発祥とされています。黒川能はこの地の人々によって数百年の間受け継がれてゆくうちに、中央の能楽とは異なった独自の発展を遂げたため、その独自性から大変貴重なものであるとされ、国の重要無形民俗文化財にも指定されています。現在でも、毎年雪深い2月に「王祇祭」が行われ、黒川能が奉納されるほか、8月に鶴岡城跡で行われる「庄内大祭」でも上演されます。

その後、激動の戦国時代の中で庄内地方の領主は武藤氏から上杉氏、最上氏と推移します。そして、江戸幕府が成立し太平の世となると、地方領主が軍事力を持つことを恐れた江戸幕府は、一つの藩につき一つの城しか所有してはならないという、「一国一城令」を出し、これによって丸岡城は取り壊されてしまいます。1615年のことです。その後、家督相続の内紛により最上氏は幕府に取り潰され、1622年に信州松代より酒井忠勝が入部し、庄内藩が成立します。酒井氏の庄内藩は明治維新まで存続します。

さて、取り壊されてしまった丸岡城ですが、後に再び歴史に登場するときが来ます。

飛んで九州肥後国(いまの熊本)に、加藤清正という武将がいました。豊臣秀吉の側近として武勲を立て、「賤ヶ岳の七本槍」にも数えられる名将で、江戸時代の思想家頼山陽をして「勇猛は夜叉の如く、慈悲は菩薩の如し」と絶賛させた人でした。肥後19万5千石の領主としても治山、治水、築城に非凡な手腕を示し、領民から慕われていました。朝鮮侵略に参加したことからアジア諸国からは悪い評価を受けることもありますが、武士として主君である秀吉の命令に背くことはできなかったのでしょう。ちなみに、朝鮮侵略では、日帝36年時代の抗日ゲリラの聖地、そして金正日将軍の出生の地として名高い白頭山(ペクトゥサン)にて「虎退治の武勇伝」を立てています。

清正は1611年に死去し、息子の加藤忠広が家督を継ぎます。しかし1632年、忠広は突如として幕府より改易を命じられます。改易というのは江戸時代の大名に対する最も重い処分で、城と領地をすべて取り上げる処分です。この改易の理由については諸説ありますが、幕府が支配をより磐石なものとするために行った旧豊臣勢力に対する粛清の一環といわれています。城と領地を取り上げられた大名は処刑、あるいはどこかの他の大名にお預けとなりますが、忠広はお預けとなり、お預け先がここ、庄内藩櫛引丸岡であったのです。忠広の一代限りにおいて堪忍分として1万石が与えられました。

忠広は母の正應院と家臣たちを伴って出羽へと旅立ちますが、迎える側の酒井氏は温情ある待遇で迎えました。藩主忠勝は、堪忍分の丸岡1万石の領地管理に助力し、そして廃城となっていた丸岡城跡に居館を新築して住まわせました。忠広は1653年に病没するまでの20余年をこの地で過ごします。遺体は1651年に没した母とともに鶴岡市の旧市街にある本住寺に埋葬されています。忠広の元家臣たちのうち希望するものは酒井氏の庄内藩に再雇用され、浪人となることを免れました。

忠広の丸岡での生活についてはよく分かっていませんが、詩歌管弦に親しみ、丸岡城から程近い金峰山に参拝したりと、意外に自由のある生活をしていたといわれます。丸岡城内にも忠広の詠んだとされる歌碑がいくつか残されていました。また、前述の黒川能を鑑賞して楽しんだとも言われます。

私の想像ですが、忠広は丸岡での生活を案外気に入っていたのかもしれないと思います。丸岡城は水田の中にあり、金峰山や母刈山を間近に望み、天気がよければ遠く月山や鳥海山を望むこともできる大変風光明媚な場所にあります。人間の権力闘争などとは無縁の大自然を眺めながらの生活は忠広の心を癒したことでしょう。また、眼の前の水田で農民が働く姿を見るのも、領民との距離を間近に感じられたことでしょう。忠広が櫛引の風土を愛していたであろうことは、この地で栽培されていた豆を「この豆は西国には産しないから」と肥後時代に懇意にあった知人に贈ったエピソードが残されていることからも知ることができます。そして、忠広は当初こそ「東国といえば文化に乏しい野蛮な地」とのイメージをもっていたかもしれませんが、イメージに反して櫛引には黒川能のような立派な独自の文化があり忠広を楽しませたし、近傍の金峰山への信仰文化も忠広にとって興味深かっただろうと思います。統治者としては忠広は失敗しましたが、彼は詩歌管弦を好んだ人であったので、悠々自適に過ごせる丸岡での生活のほうが自分にあっているとすら感じたかもしれません。

櫛引の人々は、加藤清正、忠広父子を篤く偲び、毎年7月に「清正公祭」を行っているほか、丸岡城の遺構の保護、調査、復元を行っています。調査の過程で丸岡城に隠されたある事実が判明しました。忠広が改易を命じられたとき、亡父清正の遺骨を幕府に秘密で櫛引まで持ち運び、丸岡城に隣接する天澤寺境内に埋葬していたことが分かったのです。幕府の探索に備えて忠広はダミーも用意していました。 清正公閣という小さな祠に清正の鎧だけを納め、公式にはこれを清正の供養の場としました。そして、遺骨は境内の別の場所に五輪塔を建てて秘密裏に埋葬したのです。調査の後、1963年には丸岡城は「丸岡城跡・加藤清正墓碑」として山形県史跡に指定されました。
加藤清正の遺骨が納められている五輪塔
昭和時代に造られた覆堂で守られていますがガラス戸越しに五輪塔を見ることができます
私が丸岡城を訪れたとき、たまたま観光ガイドの方がいらっしゃり、親切に案内をしてくださいました。前田(まえた)という苗字の方で、有名な加賀の前田利家の末裔の方なのだそうです。丸岡城の脇には小さな案内所もあり、そこでは「丸岡城ものがたり」という小冊子が置かれています(協力金100円)。この記事を書くときに参考にさせていただきました。

丸岡城内は櫛引の人々の尽力によって非常に立派に整備されていました。1999年から2006年までの丸岡城跡発掘調査、および2007年から2010年までの丸岡城跡公園整備工事の成果のようです。建物はもちろん残っていませんが、礎石はきちんともとの位置通りに並べられ、一つひとつの建物について説明の為の小さな碑も作られていました。お堀も残されています。
遺構の一部、よく整備されています
丸岡城は水田地帯の中にあり、とても静かな場所でした。その静かな場所で、礎石の遺構群と、金峰山や母刈山の山並みを眺めつつ、丸岡城の在りし日の姿、そして加藤忠広のこの地での生活を想像しました。忠広の辿った運命は歴史の無情としか言いようがありません。しかし、おそらく当時から変わらない姿をとどめているであろう山々や田畑を眺めていると、人間を翻弄する運命すらも瑣末なものに思えてきます。それでも、この地の人々の心の中にいまでも加藤清正、忠広父子が生き続けているのだと思うと、どこか嬉しくなるものでした。
丸岡城の墓守り?
地元の人々からは「マーチン」と呼ばれているようです
さて、 丸岡城を見た後は、近くにある「櫛引温泉 ゆ~TOWN」に漬かってきました。鉄系の茶色いお湯の温泉と、鉄イオンを除いた透明なお湯の温泉の2つの浴槽があり、非常に温まります。レストランも併設されていて、とんかつ定食が美味しかったです。そしてなにより、このような大型温泉施設にしては珍しいことに、ゆ~TOWNのお湯は源泉掛け流しなのでとても気持ちが良く、大変おすすめです(料金400円)。
ゆ~TOWNのとんかつ定食、とても美味しいです
櫛引は大変素晴らしい場所でした。もし近くにお住まいの読者がいらっしゃったら、あるいは清正ファン、フルーツ好き、能ファンの読者がいらっしゃったらぜひ1度訪れてみてください。

***LINK***
丸岡城跡・加藤清正墓碑 鶴岡市: http://www.tsuruokakanko.com/kushibiki/maruoka/
櫛引エリアの観光案内 鶴岡市: http://www.tsuruokakanko.com/kushibiki/
櫛引温泉 ゆ~TOWN: http://www.u-town.info/index.htm

2013年1月8日火曜日

酒田市松山にて眺海の森を現地指導

眺海の森からの眺め
冬休みの間には恋人と2回デートをした。1回目は12月下旬に宮城県仙台市で、2回目は1月上旬に山形県酒田市でデートをした。このうち前者のほうはデートとはいっても「SENDAI 光のページェント」を現地指導したほかは家でダラダラしていただけなので、Blogネタとしては後者のほうがよいだろう。今回は後者のデートについて書いていく。

眺海の森は酒田市の松山という地区にある自然公園で、宿泊施設や年間を通して楽しめる様々なレジャー施設がある。以前に酒田を紹介した際に酒田を港町だと紹介したが、眺海の森は海からは少し離れていて、見晴らしの大変よい丘陵地にある。というのも、眺海の森が立地する松山という地区はもともと松山町という独立した町で、2005年に平成の大合併で酒田市に組み入れられた地域だからだ。

松山という町は人口は少ないながら非常に由緒のある町だ。江戸時代にはこの地に松山藩という石高2万5千石の藩があり、200年以上に渡って存続した。もともと山形県の庄内地方には酒井氏が治める庄内藩という藩があったが、庄内藩初代藩主である酒井忠勝の三男忠恒が1647年に庄内藩領の一部を分与されて興したのが松山藩の始まりである。なお、「松山」の名前も、かつてこの地は「中山」と称されていたが、忠恒が「松山」と改めたのが始まりである。以後、松山藩は明治維新後の廃藩置県までの200年以上の間存続し、三代藩主忠休の時代には幕府から許されて松山城が築城された。つまり、松山は城下町であった。残念ながら明治維新後に城はほとんど破壊されてしまったが、大手門は破壊を免れ、現在まで松山町内にその勇姿を留めている。

夜のゲレンデ
さて、今回のデートの目玉はスキーであった。眺海の森には「松山スキー場」という施設があり、庄内の美しい大自然を味わいながらスキーができる。300mほどの長さのコースが3面あり、そこそこの傾斜だから退屈しないし、丘陵地なので積雪も十分で良好な雪質を楽しめる。人出が少ないのもよい。夜などはほとんどゲレンデを2人で貸切するような感じで非常に素晴らしかった。料金はリフト1日件2400円、スキーセットのレンタルが1日1000円(ウェアは持参のこと)であり、なかなかリーズナブルである(2013年1月現在)。私はスキーは上手ではないが、恋人と一緒にゲレンデで時間を過ごせてとても嬉しかった。

16万5千石の夜景?
宿は眺海の森の施設の一部である「眺海の森 さんさん」という施設を利用した。この宿からは美しい庄内平野と日本海を一望できる。特に大浴場でお湯に漬かりながら庄内平野の夜景を眺めるのは最高だった。デートの日は空が若干荒れ模様で、晴れたかと思えばすぐ吹雪きだすような天候であったが、夜はかなり遠くまで見晴らしがきき、酒田市の灯りや庄内空港の誘導灯まで眺めることができ、幻想的な雰囲気すらあった。眼下の庄内平野は「はえぬき」や「つや姫」などのブランド米を産し、かつては庄内藩14万石、松山藩2万5千石を支えた日本有数の稲作地帯である。さながら、「16万5千石の夜景」といったところか?


豪勢な夕食(その1)
豪勢な夕食(その2)
最後に、お腹も空いてきた辺りなのでさんさんの夕食の写真をのせよう。これは「最上」コースの料理だ。といっても、最上(さいじょう)のコースということではない(むしろいちばん安いコース)。最上と書いて「もがみ」と読む。庄内平野を流れる河川である最上川(もがみがわ)に由来しているのだろう。松山の地元の食材を活かした構成で、見た目も豪勢だが、もちろん味も大満足であった。肉の焼き物、寿司、天ぷらまで付いたメニューで値段はたったの1500円というから驚きだ。

ざっとまとめたが、振り返ってみても素晴らしい1泊2日であった。もしお近くにお住まいの読者がいたら、今度眺海の森に足を運んでみるのはどうだろうか?

***LINK***
眺海の森 酒田市: http://www.city.sakata.lg.jp/culture/sports/f0673pd0622104209.html
眺海の森 松山スキー場 SURF & SNOW: http://snow.gnavi.co.jp/guide/htm/r0734s.htm
眺海の森 さんさん: http://www.matsuyama33.com/